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最高裁判所第三小法廷 昭和58年(オ)152号 判決 1984年4月10日

上告人

川義株式会社

右代表者

川ロ正義

右訴訟代理人

浅井正

細井土夫

被上告人

和田兼一

被上告人

和田芳子

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人浅井正の上告理由第一点及び同細井土夫の上告理由第二の一、二について

一原審の確定した事実関係の大要は、次のとおりである。

1和田康裕(以下「康裕」という。)は、昭和五三年三月岐阜県立郡上北高等学校を卒業して直ちに上告会社に入社し、同社の本件社屋四階の独身寮に住み込んで就労していたが、営業社員として入社したものの、見習と呼ばれ、営業活動を見習うほか、研修を受けたり雑用をしていた。

2他方、勅使川原晴久(以下「晴久」という。)は、昭和五二年三月岐阜市内の高等学校を卒業して上告会社に入社し、本件社屋の寮に入つていたが、同年一〇月ころから一般のアパートに移り、会社に通勤していた。しかし、晴久は、無断欠勤が多く、上司から勤務態度を注意されたため嫌気がさして昭和五三年二月上告会社を退社し、尾西市内の呉服店に勤めたが、そこもしばらくして辞め、同年七月ころからは無職となつていた。晴久は、上告会社に勤務していた昭和五二年九月下旬ころから上告会社の商品である反物類を盗み出しては換金していたが、上告会社を退社してからも夜間に宿直中のもとの同僚や同僚に紹介されて親しくなつた康裕ら新入社員を訪ね、同人らと雑談、飲食したりしながら、その隙を見ては反物類を盗んでいた。

3晴久は、昭和五三年八月一三日(日曜日)午後九時ころ、会社の反物類を窃取しようと考え、自動車で上告会社を訪れ、本件社屋表側壁面に設置されているブザーボタンを押したところ、くぐり戸が開き宿直勤務中の康裕が顔を出した。晴久は、康裕に対し、「久しぶりだなあ」と声をかけたので、康裕が「やあ先輩ですか」と答えると、晴久は、「トイレを貸してくれ」と言つたので、康裕がこれを許したところ、晴久は、社屋内に入りトイレを使用した。その後晴久は帰宅しようとしないので、康裕が「今日は社長が出張に行つている。もうすぐ帰つて来るので早く帰つた方がよい。」旨作り事を言つて退去を促したところ、晴久は反物窃取の目的を遂げず帰つて行つた。しかし、晴久は、反物窃取の目的を諦め切れず、同日午後一〇時四五分ころ再び本件社屋を訪れ、ブザーボタンを押して来訪を告げたところ、再びくぐり戸が開いて康裕が顔を見せた。晴久は、康裕に対し「社長は帰つたか」と聞いたので、康裕が「鞄を置いてすぐ帰つた」と答えたところ、康裕の許可もないのに社屋内に入り込んだ。康裕は、晴久が上告会社の反物類を持ち去ることがあるので社屋内に入れないようにしようと考えていたが、晴久が意に反して社屋内に入り込んできたため、晴久が話しかけても答えず、「あんたに話すことはない」と冷たい態度を示すとともに暗に退去を促した。そのため晴久は、立腹し、康裕に一階商品展示場畳敷部分に正座するよう命ずるとともに、正座した康裕に対して色々と話しかけたが、康裕は、反抗的な態度を変えず、晴久に対し「あんたが来ると反物がなくなる」「あんたが来たことが判ると僕が叱られる」と言つた。それを聞いた晴久は、いたく憤激するとともにこれまでの犯行が康裕にも知られていることを知り、康裕がこのまま見逃してくれそうにないので反物類を盗むには康裕を殺害するほかはないと考え、突嗟に近くの棚にあつた花造り用ビニール紐をとり出し、これを康裕の頸部に巻きつけて両手で絞めあげ、仰向けに引き倒したうえ、社屋内にあつた木製野球バットで顔面を殴打したりしてその場で康裕を死亡させ、反物類を盗んで自動車で逃走した。

4本件社屋には夜間の出入口としてくぐり戸が設けられていたが、この戸又はその近くにはのぞき窓やインターホンはなく、呼出用のブザーボタンのみが設置され、また、防犯ベル等の設備もなかつた。もつとも、本件社屋は、建物としての機能に欠陥はなく、窓、戸は堅牢で錠は整備されており、鉄筋コンクリート造りであるため、戸締りを十分にしている限り、外部からの盗賊等の侵入を防止することは可能であつたが、しかし、夜間宿直中に来訪者がブザーボタソを押しても社屋内にいる宿直員はくぐり戸を開けて見ないとそれが誰であるかを確かめることは困難であつたし、くぐり戸を開けた途端その者が強引に社屋内に押し入つてしまうと退去させることが非常に困難であつた。また、付近はいわゆるビジネス街であつて、夜間は極端に人通りが少なく、本件社屋内で異常事態が発生しても近隣の人や通行人に目撃、感知される可能性はほとんどなく、大声で助けを求めても効果はないような状況にあつた。

5上告会社の取扱商品には、高価な反物、毛皮、宝石類があつたが、反物は社屋内畳敷きの商品陳列場の棚や畳の上に積み並べられ、毛皮類はハンガーに掛けられて展示されていた。また、高価品については番号等が付せられていたが、帳簿又は伝票の記載を故意に偽ると紛失又は盗難にあつても判らなかつたし、社屋内の商品陳列場は広く開放的なものであるため、夜間宿直員が一人となつたときなどは、監視の隙に来訪者によつて商品を盗まれることもあり得る状況であつた。

6上告会社には宿直制度があり、原則として、平日は午後六時から翌朝午前八時三〇分まで、土曜は午後六時から翌朝午前九時まで、日曜祝日は午前九時から翌朝午前八時半までと定められ、男子従業員全員が一人宛交替制で実施していた。宿直員の仕事は、夜間の営業、すなわち夜間における小売業者との商談又は小売業者への商品の引渡、電話による受注、運送業者への発送品引渡、帰社した出張社員からの売上金受領、同金員の金庫への収納等があるほか、盗難防止のための戸締り、見回り等、更に火災予防のための見回り等も含まれており、宿直員に割当てられると寮生であつても宿直員の指定就寝場所である一階商品陳列場の一隅で就寝しなければならなかつた。なお、毎年八月一二日から同月一六日まではお盆休みで、その間の宿直は、会社代表者その他の役員とその年に入社した従業員のいずれか一名がこれに当る旨の慣行があり、康裕は、昭和五三年八月一三日午前九時から翌一四日午前九時まで宿直勤務を命じられていた。

7上告会社では昭和五二年一〇月ころから商品の紛失事故が二度、三度と発生していたが、その原因を調査したが判明しないため、全従業員に対し、紛失事故がないようにすることや商品持出しを厳正にすることを注意し、夜間の戸締りを厳重にすることを指示したが、紛失事故はやまなかつた。晴久は、退職後本件事故の際の犯行を含め、七、八回上告会社から反物を窃取するという犯行をくり返しており、昭和五三年七月一三日には、宿直員が晴久の反物窃取を見付けたものの、直属の上司に話したのみで上層部には報告しなかつた。なお、本件事故発生前上告会社に不審な電話がたびたびかかつてきており、その中には晴久から康裕に対する電話もあつたので、上告会社の代表者は、康裕に対し晴久からの用件を尋ねたが、理由が判然としなかつたため、晴久とは交際しないよう注意をしたこともあつた。

以上の原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に採証法則・経験則違反、審理不尽等所論の違法はない。

二ところで、雇傭契約は、労働者の労務提供と使用者の報酬支払をその基本内容とする双務有償契約であるが、通常の場合、労働者は、使用者の指定した場所に配置され、使用者の供給する設備、器具等を用いて労務の提供を行うものであるから、使用者は、右の報酬支払義務にとどまらず、労働者が労務提供のため設置する場所、設備もしくは器具等を使用し又は使用者の指示のもとに労務を提供する過程において、労働者の生命及び身体等を危険から保護するよう配慮すべき義務(以下「安全配慮義務」という。)を負つているものと解するのが相当である。もとより、使用者の右の安全配慮義務の具体的内容は、労働者の職種、労務内容、労務提供場所等安全配慮義務が問題となる当該具体的状況等によつて異なるべきものであることはいうまでもないが、これを本件の場合に即してみれば、上告会社は、康裕一人に対し昭和五三年八月一三日午前九時から二四時間の宿直勤務を命じ、宿直勤務の場所を本件社屋内、就寝場所を同社屋一階商品陳列場と指示したのであるから、宿直勤務の場所である本件社屋内に、宿直勤務中に盗賊等が容易に侵入できないような物的設備を施し、かつ、万一盗賊が侵入した場合は盗賊から加えられるかも知れない危害を免れることができるような物的施設を設けるとともに、これら物的施設等を十分に整備することが困難であるときは、宿直員を増員するとか宿直員に対する安全教育を十分に行うなどし、もつて右物的施設等と相まつて労働者たる康裕の生命、身体等に危険が及ばないように配慮する義務があつたものと解すべきである。

そこで、以上の見地に立つて本件をみるに、前記の事実関係からみれば、上告会社の本件社屋には、昼夜高価な商品が多数かつ開放的に陳列、保管されていて、休日又は夜間には盗賊が侵入するおそれがあつたのみならず、当時、上告会社では現に商品の紛失事故や盗難が発生したり、不審な電話がしばしばかかつてきていたというのであり、しかも侵入した盗賊が宿直員に発見されたような場合には宿直員に危害を加えることも十分予見することができたにもかかわらず、上告会社では、盗賊侵入防止のためののぞき窓、インターホン、防犯チェーン等の物的設備や侵入した盗賊から危害を免れるために役立つ防犯ベル等の物的設備を施さず、また、盗難等の危険を考慮して休日又は夜間の宿直員を新入社員一人としないで適宜増員するとか宿直員に対し十分な安全教育を施すなどの措置を講じていなかつたというのであるから、上告会社には、康裕に対する前記の安全配慮義務の不履行があつたものといわなければならない。そして、前記の事実からすると、上告会社において前記のような安全配慮義務を履行しておれば、本件のような康裕の殺害という事故の発生を未然に防止しえたというべきであるから、右事故は、上告会社の右安全配慮義務の不履行によつて発生したものということができ、上告会社は、右事故によつて被害を被つた者に対しその損害を賠償すべき義務があるものといわざるをえない。

三してみれば、右と同趣旨の見解のもとに、本件において上告会社に安全配慮義務不履行に基づく損害賠償責任を肯定した原審の判断は、正当として是認することができ、原審の右判断に所論の違法はない。所論引用の判例は、事案を異にし、本件に適切でない。論旨は、違憲をいう点を含め、ひつきよう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は原審の認定にそわない事実若しくは独自の見解に基づいて原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。

右上告代理人らのその余の上告理由について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係及びその説示に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、ひつきよう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は独自の見解に基づいて上告会社の賠償すべき損害額の範囲に関する原審の判断の不当をいうものにすぎず、採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(伊藤正己 横井大三 木戸口久治 安岡滿彦)

上告代理人浅井正の上告理由

原判決及び原判決の引用する第一審判決(以上をあわせて以下「原判決等」という)は以下に述べる複数の理由により破毀されるべきである。

(第一点)

一、原判決等には最高裁の従前の判例(昭和四六年六月二四日民集二五・四・五七四、昭和四九年一二月一二日民集二八・一〇・二〇二八)に抵触する判例違反がある。すなわち原判決等は本件事案につき上告人に「違法の認識の可能性が存したか否かの吟味をすることなく、軽々に上告人の過失責任を認定したことにより、過失責任の成立するためには少くとも違法の認識の可能性が必要とされる旨判示した、前記各最高裁判所判例に違反して上告人の過失責任を容認した。

二、もとより違法の認識の可能性は原判決等も指摘する様に「本件労働契約の趣旨、内容、命じた宿直勤務の内容、提供された勤務場所及び施設等を総合し、これら事実関係のもとで条理」にもとづき判断されるべきであろう。ところで原判決等は本件における訴外和田康裕の宿直業務の具体的内容を全く吟味せず、漫然と上告人会社における通常時の宿直員の業務内容を認定し(もつともその認定自体にも事実の誤認が多々あるのではあるが、ここではその点には触れない。)、それをもつて上告人の過失責任の根拠としてしまつているのである。すなわち「宿直員の仕事は、夜間の営業、即ち夜間における小売業者との商談又は小売業者への商品の引渡、電話による受注、運送業者への発送品引渡、帰社した出張員からの売上金受領、同金員の金庫への収納等があり、また盗難防止のための戸締り、見回り等、更に火災予防のための見回り等も含まれている。」との事実認定の下に「宿直勤務の場所である本件社屋内に、宿直勤務中に盗賊等が容易に侵入しないように物的設備(例えばのぞき窓)を施す、万一盗賊が侵入した場合はこれが加えるかも知れない危害から逃れることができるような物的施設(例えば防犯ベル)を設ける、そしてこれら物的条件を十分に整備することが困難であるときは、宿直員に対する教育を十分に行なつて宿直員の危険回避に関する知識を高め、危険に対する適切なる対応能力を養成し、もつて物的条件と相まつて危険が労働者に及ばないようにする義務があつたものといわねばならない。」とした上「一人制のもとでの宿直員に対し夜間の営業活動も命じていたのであるから、正当な目的をもつて来訪する顧客に対してはくぐり戸を開いて応待する義務があり、正当なる来訪者か不法目的を有する侵入者かを識別すること及びその方法如何が問題であつて、一律にくぐり戸を含めて戸締りを厳重にせよと命ずるだけでは不十分」と判断している。

三、1 かかる判断の結果、原判決等は、上告人に対する「違法の認識の可能性の有無についての吟味」をすべて欠落させてしまつたのである。なんとなれば訴外和田康裕が殺害されたのは昭和五三年八月一三日のしかも日曜日であつたのであり(原判決の引用する第一審判決(一七丁表)における認定)、「毎年八月一二日から同月一六日まではお盆休みで」(原判決の引用する第一審判決(二二丁表)における認定)ある上告人会社の規模(資本金四五〇〇万円、従業員十数名の同族非上場株式会社である)及び業務形態(繊維製品の卸売業を主体とする、いわゆる「問屋」であり顧客も又繊維関係の業者であつて一般消費者は皆無であること)、社屋の立地条件(所在地である名古屋市中区錦三丁目一番六号が名古屋の繊維問屋街の一角であり隣接商店街で八月一三日?一五日営業している商店はこれ又皆無であること)からして、「夜間の営業、即ち夜間における小売業者との商談又は小売業者への商品の引渡、電話による受注、運送業者への発送品引渡、帰社した出張員からの売上金受領、同金員の金庫への収納等は、本件事件当日に全く予想する必要さえもないことであつたのである。すなわち八月一三日?一五日は我国では古くから「お盆休み」として使用人が里帰りし営業は休止する社会慣習があり、この慣習は繊維業界とりわけ繊維問屋の業界では商慣習法ないし事実たる慣習となつていた。要するに上告人会社の所在する周囲の街々は、どこも「お盆休み」であり上告人会社の取引先もすべて「お盆休み」であつたのである。加えて日曜日という本来の休日が重なつていたのであるから、昼間は勿論のこと午後一一時という深夜に近い夜間において、本件事件当日宿直員が営業活動の一端として「くぐり戸」の開閉をせねばならぬ可能性は全く存在しなかつたのである。

2 これを要するに、本件事件当日における宿直員の業務は「盗難防止のための戸締り、見回り等、火災予防のための見回り等」のみであつたのである。

3 さて、上告人会社の社屋の状況であるが、「本件社屋は、建物としての機能に欠陥はなく、窓、戸は堅牢で錠は整備されており、鉄筋コンクリート造りであるため、戸締りを十分にしている限り、外部からの盗賊の侵入を防止することは可能である。」(原審の引用する第一審判決二〇丁表)。

4 従つて上告人会社に「違法認識の可能性」があつたという為には、(1)「お盆休み」と日曜日という繊維問屋業界全体が全国的に二重の休日である八月一三日の、しかも深夜に近い午後一一時頃(2)「くぐり戸を開ける」という行為を宿直員にさせるだけの人間関係を宿直員と継続している人物か、若くは「自己と、かかる人間関係があると宿直員をして誤信させしめ(例えば電報配達を仮装するとか)、結果的に宿直員をしてくぐり戸を開けさせしむる人物が上告人会社を訪れ、(3)店内に入つた当該人物が、その後宿直員に対し殺意を抱き殺害行為を実行する、という一連の可能性を「通常人が予見しえたこと」(大判明治四四・一一・一民録一七 六一七頁)が必要である。

5 ところで上告人会社本社一階出入口扉の通音状況であるが、外部から内部の音を聴き取るよりも内部から外部の音を聴き取る方が一層明瞭に聴き取りが可能である上、当該音が肉声である場合には人物の判別も十分に可能であり(この点当代理人も実験してみたが全く問題ないところである)(原審川口敏秋の証言)、深夜に近い一一時頃という時間に、しかもお盆休みの交通量の極端に低下した晴天の本件事件当夜、扉の前に立つた外部からの訴外勅使川原晴久の肉声は訴外和田康裕にも明確に判別でき、かつ、扉の外の人物が知人である訴外勅使川原晴久であることを苦もなく認識できたはずである(原審及び原審の引用する第一審は「夜間宿直中に誰かがブザーボタンを押しても社屋内にいる宿直員はくぐり戸を開けて見ないとそれが誰であるか確かめることは困難であり」と事実認定をしており、かつ原審は、この点につき証人川口敏秋の証言を排斥しているけれども、かかる事実認定や、採証の方法が、審理不尽、採証法則違反、経験則違反であることは後述するとおりである)。

6 以上から明らかな様に問題は、「くぐり戸を開けるという行為を宿直員にさせるだけの人間関係を宿直員と維持している人物が当該宿直員を殺害する」という「違法」を上告人が認識する可能性が存在したか否かである。

7 上告人が神仏の如く将来を見通せたならともかく、通常人である限り認識の可能性は皆無といつてよいであろう。いわゆる安全配慮義務によつて使用者に要求される「違法認識の可能性」の基準は、ここ数年来の判例の集積によつてほぼ固まつたものと評することができる(判例時報九七四号九六頁参照)けれども、万一、本件事件が最高裁判所において上告棄却により確定するならば、安定した判例の流れに大転換を強いるものであり我国の「安全配慮義務」の一般的な履行状況に劇的な変更を迫ることになるであろう。「来訪者が営業活動と全く関係ないことを宿直員自身が認識した上で、深夜扉を開くという判断を宿直員がなす」、かかる判断を宿直員にさせしむるだけの関係を宿直員と維持している人物が当該宿直員を「殺害する」等という事案は、誠に突発的な重大事件であり通常人の予測能力を遙に絶するところのものである。およそかかる事例に迄安全配慮義務を持ち込むならば銀行等金融機関の窓口はすべて防弾ガラスと鉄格子を装備すべきであるし、タクシーの運転席と客席の間にも同様の設備を設置すべきであろう。又、使用者は従業員の「私的交遊関係」につき日常的な監視体制を整え、突発的に殺意を生じる様な人間(むしろその様な特性は「人間」自身の特性なのかもしれないが)との交遊をすべて遮断せねばならなくなる。

8 世の中すべてが、平等にかかる責任を負担せねばならないということであるならば上告人も又それに服することも吝ではない。しかし、おそらく、使用者の安全配慮責任はさまで高度のものではないはずである。一人小規模の呉服屋である上告人のみに無過失責任ともいうべき極限的な責任を負担させた原判決は憲法第一四条の法の下の平等にも反するものである。人口二〇〇万人以上の大都市名古屋においてさえ、本件の如き強盗殺人事件は数年間にわずか一度という状況だつたのである。治安の維持においては世界に類をみない我国の大都会で扉を開かない限り破り様のない鉄筋コンクリート造の建造物の中で宿直している従業員が交遊関係にあつた人物を深夜屋内に入らせてしまい、口論の結果、座して絞殺される等という予見可能性がいつたいどこに存するといえようか。むしろ、そこまでの安全配慮義務を容認するのであれば、最高裁判所の判例により安全配慮義務の無過失責任性を高らかに宣言するのが筋であろう。具体的な被害者救済を重視する余り、法を枉げて過失なき過失責任を容認することは我国の労使関係における法的安定性を著しい混乱におとし入れる以外の何物をももたらさない。この点につき十二分な御配慮をいただきたい。

(第二点)

一、原判決には審理不尽、採証法則違反、経験則違反の違法がある。しかしてその違法は判決に著しい影響を与えている。

二、違法の点を列挙すれば左のとおりである。

1 仮に上告人に「違法認識の可能性」が存したとしても、それは極少の過失にしかすぎない。かかる場合は衡平の見地から条理上損害賠償責任の範囲を限定的に解して適用すべきである。更には訴外和田康裕の過失割合を大幅に認定すべきである。しかるに原判決等はこの観点を欠落させてしまつた。

2 原判決は証人川口敏秋の証言を排斥し、扉の通音状況に関する上告人の検証申請を無視した結果「夜間宿直中に誰かがブザーボタンを押しても社屋内にいる宿直員はくぐり戸を開けて見ないとそれが誰であるか確かめることは困難」との重大な事実認定をなした。

3 原判決等は上告人と訴外和田康裕間の労使関係における「信頼の原則」を無視して上告人の過失責任を容認した。いわゆる過失責任の分野では信頼の原則が交通事故訴訟を中心にして確立されてきた。しかして、この原則は単に交通事故紛争に限らず、あらゆる過失責任の分野で吟味されて然るべきである。しかして、本件はその事案の実態からして自己の従業員である訴外和田康裕が深夜訴外勅使川原の如き部外者を社屋内に入れないことを上告人が信頼することに過失はない状況であつた。要するに本件は上告人に対し「信頼の原則」が適用される事案であり、右原則の適用をしなかつた原判決等には審理不尽、経験則違反の違法がある。

上告代理人細井土夫の上告理由

第一、上告の趣旨の訂正(省略)

第二、上告の理由

一、原判決には、判決に影響を及ぼすこと明らかな審理不尽の違法がある。

第一審判決及び原判決は、本件社屋の状況について

「しかし夜間宿直中に誰かがブザーボタンを押しても社屋内にいる宿直員はくぐり戸を開けて見ないとそれが誰であるか確かめることは困難であり……」(第一審判決二〇丁目)

と認定し、くぐり戸を開けなければ建物の外部にいる人間と内部にいる人間とが会話できず、従つて内部の人間は、戸を開けなければ外部の人間が誰であるか確認できないと断定している。しかし、事実は、これと相違するのであつて、戸を閉めたままの状態で外部の人間と内部の人間が会話することは十分可能である。そこで上告人は、原審において、証人川口敏秋の証言を得、それに加えて昭和五七年五月一九日付で「鑑定嘱託の申立」をなし、「控訴人方(上告人方)本社社屋一階表(桜通側)において、深夜くぐり戸が閉つていても建物の内側にいる人と外側の人との間で会話が可能であること、従つて、くぐり戸を開けなくても外側にいる人が誰であるか及び所用・用件等について確認が可能であること」を立証しようとしたものである。

しかるに、原判決は、鑑定嘱託の申立を採用しないばかりか、証人川口敏秋の証言を信用できないとして一方的にしりぞけてしまつたのであるが、仮りに右鑑定嘱託が採用されておれば、証人川口の証言が信用できることが明確に立証されたはずであり、これが立証されたならば、上告人について、のぞき窓等の物的設備を施す等の義務は十分履行されていたこととなるのであり、上告人には過失がないと判断されたはずである。

仮りにまた、外部の人間と内部の人間とが、くぐり戸を閉めたままで会話が可能であるというだけでは、物的設備を完備する義務として不十分であるとしても、亡和田康裕が、商取引が行われる可能性が全くないお盆の深夜に、来訪者に対して相手方に話かけて、人物の如何、用件乃至来訪の目的等を確認する等の措置をとらずに単純にくぐり戸を開けてしまつた所為については、同人に著しい過失があると評価すべきであり、過失相殺の程度に重大な影響を与えるものと言わなければならない。

従つて、鑑定嘱託の申立を簡単に却下したのは、重大な手続違反であつて、判決に影響を及ぼすことが明らかな審理不尽の違法があると言わなければならない。

二、原判決には、判決に影響を及ぼすこと明らかな法令違背(経験則適用における著しい不当)がある。

(一) 事実の認定(心証形成)における著しい経験則違背

第一審判決、及び原審判決は、まず上告人の(本社社屋の状況)について「しかし夜間宿直中に誰かがブザーボタンを押しても社屋内にいる宿直員はくぐり戸を開けて見ないとそれが誰であるか確かめることは困難であり、」(第一審判決二〇丁目)と認定しているが、これが誤りであることは前述のとおりである。

また(商品の保管状況)について「社屋内の商品陳列場は一階から四階まであつて広く、また開放的な陳列方法であるため従業員の監視の隙に、夜間宿直員が一人となつた時などは特に来訪者によつて商品を盗まれる(万引)こともあり得る状況である。」(同判決二一丁目)として、あたかも、宿直員が一人になつたときしばしば来訪者があり、かつ、その際しばしば万引が行われていたことをうかがわせるような認定をしているが、実際には、営業時間外に突然来訪者があることはほとんど無いのであつて、やむを得ず営業時間外に商取引上の所用があつて上告人方を訪れる人は、必ず事前にその旨を架電し、来社の可否を確かめてから訪れるのであり、この場合には、営業担当者がそのまま来訪者が来るまで居残つているので、宿直員が一人で来訪者と応待することはあり得ないことである。来訪者の側からしても、用件が足せなければ意味がないので、平日の営業時間後に来訪する場合には、必ず架電してくるわけである。日曜、祝日には、現実問題として来訪者は全くない。

加えて、(宿直制度)及び宿直員の仕事として、「夜間の営業、即ち夜間における小売業者との商談又は小売業者への商品の引渡、電話による受注、運送業者への発送品引渡、帰社した出張員からの売上受領、同金員の金庫への収納等」と「盗難防止のための戸締り、見回り等、更に火災予防のための見回り等も含まれている。」としているが、宿直員が、前者の営業を行うことはほとんど無いのであり、後者の戸締り等が本来の仕事である。そして、お盆休み(特にその深夜)の間の宿直員については、営業活動を行う可能性は全く無いのであり、戸締り防火等が唯一の仕事である。このことは、お盆休み中は上告人の取引の相手方である小売店がほとんど休みとなるため、上告人方へ仕入れに来ることが無くなつてしまうことからして明らかであり、呉服問屋に働く者は誰でも承知している事柄である。

更に、(商品紛失事故)については、昭和五三年七月一三日に宿直員の谷口が、勅使川原の反物窃取を見つけたのであり、その場に亡和田康裕が居て、勅使川原が窃盗犯人であることを現認したことは、何故か認定されていないのである(同判決二三丁目)。

また、(不審な電話)が上告人方へしばしばかかつてきたと認定されているのであるが、この程度の内容の電話が何故不審な電話であるのか了解に苦しむものである。その後において、亡和田康裕が殺害されるに至つたため、あたかも、それを予告する電話であるかのように認定されているのであるが、それを予見するような内容の電話ではないし、また、商売をやつておれば、この程度の電話はめずらしいことではないのであつて、取り立てて不審をいだくほどのことではない。

以上のごとく、第一審及び原判決は、亡和田康裕が殺害されるという不幸な事実に目をうばわれ、それにひきずられて、上告人が康裕を非常に危険な状況の中で宿直勤務をさせたかのような認定となつているのである。しかし、第一審及び原審の認定は著しく事実に反するのであつて、右事実誤認は、その後の経験則適用の誤りと重なつて、最終的な上告人の責任の有無についての判断を誤らせることとなるのである。

(二) 康裕の上に生じた本件危害の評価について、経験則に違背する違法がある。

第一審及び原審判決は、「使用者のなした具体的労務指揮または提供した場所、施設等から生じたものではなく、これらとは無関係に生じた危険や、右具体的な当務指揮または提供した場所、施設等から生じた危険であつても使用者にとつて管理し得ない事由……(中略)……によつて生じた危険については、もともと使用者に防止義務を課することができないというべきである」(第一審判決二五丁目)として、一般論としては、使用者が管理し得ない事由によつて生じた危険については、使用者に責任がないとしている。

にもかかわらず、この一般論につづけて、「宿直員であつた康裕の上に生じた本件危害は、被告が管理していた業務遂行中に生じた危険というべく、使用者にとつて管理し得ない事由によつて生じた危険であるとはとうていいえない。」(第一審判決二六丁目)と断定しているのは、およそ了解に苦しむものである。上告人は、亡和田康裕が業務遂行中に死亡したことを争つているのではないのである。上告人は、亡和田康裕に宿直業務をさせることによつて、同人を管理していることは当初より認めているところである。たとえば、上告人本社社屋に構造上の欠陥があつて、亡和田康裕がガス中毒死したような場合には、上告人はまさに責任を免れないと思われるのである。しかしながら、上告人は、すでに退社し、上告人と無関係となつた勅使川原の行動を管理することは不可能であり、勅使川原が、お盆の深夜上告人社屋に亡和田康裕を訪ね、同人を故意に殺害する危険をも管理することは不可能であつたと主張しているのである。

たとえば、タクシー強盗、郵便局強盗などは、本件のごとき強盗の態様より発生頻度が著しく高く、一般的抽象的にはかなりの程度で事件発生の予見が可能な犯罪の態様であるが、原判決の論法をもつてすれば、タクシー会社、郵便局は、自己の管理可能な自動車内若くは郵便局の建物内で起きた事故として、当然に従業員の負傷乃至死亡の結果について、民事上の損害賠償責任を負うことになるのである。しかし、このような判断が、果して妥当なものであろうか。

上告人は、これらの事故については、使用者が管理し得ない危険が現実化したと考えるのである。被害者にとつては、まことに不幸な出来事であるか、一般市民が強盗犯人におそわれて死傷した場合のように、一般的社会的な危険が現実化したと考えるべきものである。この点において、原審判決は、そもそも、上告人が管理し得ない危険について上告人に責任を負わせたもので、判決に影響を及ぼすことが明らかな経験則違背があると言わなければならない。

(三) 原判決には、予見可能性の判断について、判決に影響を及ぼすこと明らかな経験則違背がある。

1 第一審及び原審判決は、本件事故当時上告人方において商品の盗難事件が発生しており、宿直中の盗難が十分予見可能であつたこと、上告人の本社社屋は、その構造上夜間には近隣と隔絶した状況となることが明らかであること等から、「何らかの方法で侵入した盗賊が宿直員と対面したとき、特に宿直員が一人であるときは、宿直員の対応如何によつては、盗賊が宿直員に危害を加えることがあるかも知れないということは予見可能であつたというべく、この点が予見できる以上、危害の程度はその延長線上において予想される最悪の程度を想定すべく、結局窃盗の目的で侵入した賊が宿直員に発見された場合、宿直員が一人であつて状況如何によつてはその盗賊は目的を達するため最悪の場合その宿直員を殺害することもあり得ると予想すべきであつたと解される。」(第一審判決二七丁目)と判断している。しかし、盗難が予見し得るからといつて、果して原判決のごとく、宿直員が殺害されることまで予見可能と言えるものであろうか。

2 債務不履行乃至不法行為における過失は、抽象的過失と称せられるものであり、その過失判断の基準は、一般人・普通人の注意程度をもつてすべきである。そして、この一般人・普通人は、具体的な職業・地位・環境等に応じた一般人を言うものである(同旨我妻栄民法講義債権総論一〇六頁、奥田昌道現代法学全集債権総論(上)一二五頁、注釈民法一九巻二四頁)。かかる見地から、上告人の注意義務乃至予見可能性が考慮されなければならないのである。

ところで、現在の日本は治安状況が良いことで有名であつて、本件事件が発生した昭和五三年当時名古屋地方での治安状態も良好であり、昭和五〇年乃至同五三年における名古屋市内所在の事業所内で、午後八時以降翌朝午前八時までの間に発生した強盗殺人事件若くは強盗殺人未遂事件は昭和五〇年に発生した強盗殺人事件一件のみであつた。また、上告人方では、盗難事故が発生していたものの、犯人が営業時間外の時間帯において外部から本社社屋に侵入するには、表のくぐり戸を開けて入る以外に方法が無いのであり、しかもくぐり戸は内側から鍵がかけられる構造となつており、右鍵自体に欠陥はなかつたのであるから、この鍵がきちつとかけられていさえすれば、営業時間外に、犯人が外部から建物内へ侵入することは非常に困難な事柄であつた。また、原判決が認定している「不審な電話」についても、従業員の生命・身体に危険を感じさせるようなものではなかつたし、上告人方の商品管理の方法も決して杜撰であつた訳ではない。従つて、このような状況において、一般の中小企業の経営者としては、「殺人事件」が発生することまでの予見可能性はなかつたものである。これが健全な常識である。原判決は、亡和田康裕の殺害という不幸な出来事に目を奪われ、通常人・一般人の注意義務の程度を誤つたものと言わなければならない。

原判決のごとく盗難事件の延長線上に「殺人事件」を予測するとすれば、世の中に、予見不可能なことは何もないこととなるであろう。原判決は、結局、経験則の適用を誤り、上告人の過失責任ではなく、実質的に絶対的な無過失責任を負わせるものであつて、過失責任主義の原則からしてそれが違法であることは明白である。

3 尚、いわゆる梅毒輸血事件(最判昭和三六年二月一六日民集一五巻二四四頁)は、職業的給血者から採血して患者に輸血する際の医師の注意義務(問診義務)について、きわめて高度の注意義務を負担させ、当該医師の過失を認定したのであるが、医師は、専門の医学教育を受け、かつ人の生命・身体に直接影響を与える立場にあるため、特別の場合における特殊高度の注意義務を肯定したものと思われる。ところで、右梅毒輸血事件の判決に対しては、実質的に医師に絶対的な無過失責任を負わせるものであるとして、学説上有力な批判があることは周知の事実であるが、医師の注意義務についての判断が仮りに正当であるとしても、これは医師という特殊な立場、職責を有する者の特殊高度の注意義務が問題になつた事案であり、本件のごとく従業員をして本来、それ自体は危険な業務とはいえない「宿直」をさせた中小企業経営者の注意義務を判断する場合の先例とはなり得ないものであり、本件の場合、上告人は、右梅毒輸血事件における医師ほど高度な注意義務を負わないと解すべきである。

(四) 原判決には、結果回避の可能性乃至因果関係の存否の判断について、判決に影響を及ぼすこと明らかな経験則違背がある。

1 原審判決は、上告人の本件社屋に、「のぞき窓や防犯チェーンが設置されておれば、勅使川原の侵入を防止することが可能となり、また、防犯ベルが設置されておれば、勅使川原が本件社屋内に侵入した後でも同人を屋外に排除することが可能であつたと考えられるし、これらの設備が同人に与える心理的効果の点から見ても、少なくとも本件のような最悪事態を避けることは十分可能であつたというべきである。」(原審判決七丁目)として、右のような諸設備が設置されておれば、亡和田康裕の殺害という最悪の事態は避けられたものと判断している。しかし、果して右のように断定してよいかどうか、きわめて疑問である。

2 すなわち、勅使川原と亡和田廉裕は、本件事件以前からかなり親密な付合いをしていたのであり、康裕は、勅使川原と同じ岐阜県の出身であることから親しみを覚え、同人の自宅の電話番号も知つていたし、勅使川原が康裕の日曜日の宿直の日に、同人から電話で頼まれてわざわざ食事の差入れをしたことがあつたし、また、勅使川原がビールや酒の差入れをしていたこともあつたものである(勅使川原の証人尋問調書参照)。勅使川原が康裕に何度も電話していたことは、記録上明らかである。

以上の事実関係からして、昭和五三年八月一三日の深夜、再度勅使川原が上告人の本社社屋を訪れた際、のぞき窓や防犯チェーンが設置されていたとしても、康裕が、勅使川原を同社屋内へ入れることを拒否し得たか否かはなはだ疑問であつて、何故原審判決のように断定できるのであろうか。勅使川原からくぐり戸を開けて本社社屋へ入れるように強く要求されれば、勅使川原の方が先輩であつた等の諸諸の事情から、康裕は、くぐり戸を開けて勅使川原を中に入れたと推測する方が経験則に合致するものである。従つて、原審判決が指摘するような防犯チェーン等が取り付けてあつても、勅使川原の侵入という結果は回避し得なかつたと思料されるのである。

更にまた、原審判決は、勅使川原が社屋内に入つたとしても、防犯ベルが設置されておれば、康裕の殺害という最悪の事態は回避されたと認定している。そして、このことは、康裕が格闘中に防犯ベルを押して外に助けを求め得たことが、理論上、当然の前提となつているのである。

しかしながら、勅使川原が紐をもつて飛びかかつてくるまで、裕康は全く殺意を感じていなかつたのであり、不意におそわれて、ほとんど無抵抗のまま、その場で殺害されてしまつたものである。従つて、仮りに、防犯ベルが設置されていたとしても、本件の場合は、康裕がこれを使用する余裕があつたとはとても考えられず、康裕の殺害という結果は回避し得なかつたと思料されるのである。この点においても、原判決は、経験則の適用を誤つたものと言わなければならない。

尚、原審判決は、これに加えて、「これらの設備が同人(勅使川原)に与える心理的効果の点から見ても、少なくとも本件のような最悪事態を避けることは十分可能であつたというべきである」として、心理的効果論を持ち出しているが、勅使川原は、同人の父親からせがまれて、当時、どうしても反物を盗み出しお金をつくる必要があつたのであり、それ故に一度万引が発覚してしまつたのにもかかわらず、その後も上告人本社社屋を訪ねているのである。このような異常な心理状態にあつた勅使川原が、防犯チェーンや防犯ベル等が設置されているというだけで、最終的に犯行を思いとどまつたとは、到底考えられないのである。そもそも、勅使川原は、当時万引のことは考えていたが、まさか康裕を殺害するなどということは夢にも考えず、上告人方におもむいたのであり、本社社屋に入つてから康裕との対応の中でとつさに殺意をいだき、同人を殺害するに至つたものである。当時勅使川原が、自分のおかれている状況を冷静に考えて、計画的に行動した様子は全く無いのであつて、このような異常な心理状態にあつた者に対し、常識的な行動を期待する方が無理である。

従つて、上告人が防犯チェーン、防犯ベル等の設備をしていても、本件の場合には、康裕の殺害という結果は回避できなかつたものであり、従つて、原判決が指摘する上告人の物的設備設置上の過失と、康裕の殺害との間には、そもそも因果関係が存しないものである。

3 また、上告人は、康裕に対し、勅使川原と交際しないように注意しており、かつ、宿直のときには戸締りをきちつとするように指示しているのであるから、安全教育の面でも格別落度はなく、却つて、右指示に反した行動をとつた康裕にこそ落度があるのである。安全教育を行つても、康裕殺害という結果は回避し得なかつたものである。

三、原判決には、上告人が賠償すべき損害額の範囲について、判決に影響を及ぼすこと明らかな法令の違背がある。

(一) 康裕の死亡による損害は、通常損害ではなく、民法四一六条二項の「特別ノ事情ニ因リテ生ジタル損害」に該当するものであり、特別の予見可能性が必要とされるのであるが、同予見可能性が被上告人によつて十分立証されていないのに、原判決がこの予見可能性が存する旨を肯定したのは、同法条の解釈を誤つたものであり、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違背がある。

(二) 加えて、康裕は、勅使川原の故意行為によつて殺害されたものであるが、上告人の所為は、康裕の殺害に対し、ほとんど原因力を与えていないものである。しかも、被上告人の側における相当因果関係、予見可能性、及び結果回避可能性の立証は十分ではない。

従つて、仮りに、上告人に康裕の殺害について損害賠償責任を肯定するにしても、康裕の殺害に基く全損害を上告人に賠償させるのは、損害賠償法の根本理念である公平の原則に反するものであり、上告人には一部責任を負わせるのが相当である。原判決は、上告人の右主張を全く採用していないが、同判決は、損害賠償法の根本理念である公平の原則に反しており、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違背がある。

(三) 上告人の過失相殺の主張に対し、原審判決は、ほとんど何の理由を示すことなく、第一審判決が康裕の過失を3.5割と認定したのを、2.5割の過失に減額している。しかしながら、本件においては、3.5割の過失相殺でも少なすぎるくらいであつて、原審判決は、過失相殺の法理(民法四一八条、同七二二条二項)の適用を誤つたことが明らかであり、判決に影響を及ぼすこと明らかな法令違背がある。

四、よつて、第一審及び原審判決が違法なことは明らかであり、速やかに破棄されるべきである。

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